人の言うことを聞かない山。そこで暮らす私。

アースガーデンの第二拠点である東京西多摩地区にあるあきる野市。鹿や猪がいて、狸は猫と同じように出会し、虫のたくさんいる(人間以外の生き物がたくさんいる)、私はそんな山の中で暮らしている。文京区から引っ越ししてきて13年経ったが、山にたつ古民家は立派な屋根で長年の風格や安定感を漂わせているが、自然に間借りさせてもらって、ただ単に年中キャンプしているようでもある。ここで暮らしだしてから、仕事のフェス現場以外でのキャンプ道具の出番は無くなった。

山の子が都心にでて意味もなく不安になったこと

元々私は岐阜の盆地の出身で、自分の人生は山の近くにいた期間の方がずっと長い。東京に出てきた当初「何かがおかしい」と思い続けて、ある日里帰りに新幹線に乗った車窓から見える景色に山があるのを見て気がついた。

「山がないからだ。」

1年経つと山がないことにも慣れ、と言うか、赤ちゃんを育てるのに必死で慣れたかどうかも考える余裕も無くなっただけだが、山がないことに気づいてからしばらくは、心にポカンと穴があいた気分になったのを覚えている。

この秋の代々木公園でのイベントearthgardenのテーマを<山>に決めた個人的な理由を言えば、山が私にとっては切っても切れない存在だと言うのが大きい。

イベントで言えば、山梨県道志村で12年主催開催したNatural High!があるし、そのあとスタートしたハイライフ八ヶ岳がある。お客さんの笑顔が緑の山で溢れる、素晴らしい機会だ。

今回、テーマ決めのミーティングの時に、それぞれの山に対するイメージがまるで違うのだと、改めて気がついた。私にとって山は、身近で感謝する存在でありながら一方で別の動物のような自由さを持っていると感じている。また、私が山を思う時に川・沢というミネラルをたっぷり含んだ水の存在は、山の中に含まれている。

数年前の大雨で、土砂崩れや川の決壊を心配して、お年寄りのご近所さんに声を掛け合って役所に避難したことがある。被害を考えれば、早く雨が止んで欲しいと願うと同時に、私は「どうにもならん」と思っていた。

山は人の言うことを聞かないから。

当たり前のことだけれども、山で暮らす人にはその体感がしっくりと腑に落ちているのではないかと思う。

山は山の都合とバランスの中である。

変わらない。

当然木々は老いるし、時に枝打ちや伐採され、天候の変化だってあるし、山としては変わり続けているのだけれども、その変化も含めて、変わらないなと思う。

山はただ山でいるだけだなと思う。

巡りの一部となる安心感

13年間同じ山に囲まれて、家の縁側から同じ山なみの景色を見てきて、その回数分だけ季節が巡ってくるのを見てきた。

山に頭はないから、都合や理屈がない。

都合や理屈を考えながら生きている私というたかが100年人生の私にとっては、遥か昔から繰り返されてきた山の季節の廻りに、しみじみと癒される。この巡っていく流れの中で私は死んで、また誰か、もしくは何かが、生まれてくるだけなのだと思える。

この癒しについて、年寄りくさい達観したような話に聞こえるかもしれないが、子どもたちが川で無心ではしゃぎ遊ぶのを見ていると、言葉にならないところで子どもだって同じことを感じているのではなないかな?と思う。川に立っていると、下流に向かって、どんどん水が流れてくる。川の中には生き物がいて、そして、自分もいる。

君も君のままでいていいよ。

子どもたちは大笑いでその流れに答える。

そんな風に私には感じる。

出生率の減少は長く問題になっていて理由は色々あるだろうが、何かが間違っているからだろう。

それを解決するために、仕事や暮らし方やお金の問題として語られるけど、山や森や川に入るような、言葉にならないような体感としての安心感が不足していることも大きいのではないかな?と私は思う。川に毎日遊びにくる地元の子どもたちの笑顔を見ていると、そう思う。山には同じ種類のものはあっても、まるで同じものなんてない。みんな違う。それでいいというか、違うだけ。

山で楽しむだけでいい

だから、都会で暮らす人には、山にただ単純に遊びにきてもらいたいなと思う。温泉に浸かるのだけでもいいけど、もう一歩踏み込んで自然を体験して欲しい。みんなで木々に囲まれた真っ暗な道を歩くのもいい。何故だかワクワクする。花火や焚き火や蝋燭の火の明かりで、普段と違う気持ちで話をしたり、聞いたり。もちろん、汚さないでね、ゴミはきちんと片付けしてね。

山の暮らしでは、色々な小さな出来事がたくさん起こる。今後、連載としてそんな日々の出来事についてお話ししていこうと思います。

田川登美子