寄稿|佐々木俊尚「今、フェスにできること、音楽にできること」加藤登紀子ライブ@ライブフォレスト7/4を見て

これまで何度も私たちのフェスに足を運んでくれているジャーナリストの佐々木俊尚さんに、7月4日に開催した 「加藤登紀子&Yae あじさい山コンサート」のレポートを寄稿いただきました。

半世紀かけたアジサイ山を祝う、7/4加藤登紀子さんの野外ライブが

東京・奥多摩のふもと、あきる野市に南沢あじさい山というアジサイの名所がある。今年90歳になった南澤忠一さんが、半世紀もかけてアジサイを植え続けた小さな山だ。ここで7月4日、加藤登紀子さんの野外ライブがひらかれた。

この日は梅雨のさなかだったけれども、雨は朝にあがった。私はJR武蔵五日市駅から40分ほど歩き、杉林を抜けてあじさい山を目指した。やがて赤や紫、白のこんもりとした花がブーケのように山の斜面を飾る姿が見えてくる。このすぐそばにある深沢渓自然人村というキャンプ場が、この日のライブの場所だ。谷筋にあって周囲を濃い森に囲まれ、秘密基地のような趣きがある。

この日のために舞台はリノベーションされ、新しい木の屋根が設置されていた。そして新型コロナ対策として、舞台の前はオールスタンディングではなく、キャンプ用の座り心地の良いチェアが数多く用意され、少しずつ離して地面に置かれた。

開放された野外の空間はつねに風が流れ、音楽ライブは、野外から取り戻されてくるのかもしれない。

ライブのオープニングアクトは、NHK BSプレミアムの番組『うたう旅』にレギュラー出演しているHONEBONE(ホネボーン)。つづいて登紀子さんの次女であるYaeさん、そして登紀子さんの登場へと続く。コロナ禍で野外ライブでさえも大半が中止となった中で、私にとっては4か月ぶりぐらいに生で聴く音楽だった。登紀子さんの変わらぬ歌声は湿った空へとのぼって吸い込まれていき、曲と曲のあいまに舞台の音が消えると、沢音や虫の声が思い出したように戻ってくる。

開放された野外の空間はつねに風が流れ、私たちの呼気も吹き払われる。だから音楽ライブは、野外から取り戻されてくるのかもしれない。感染症専門医として著名な高山義浩医師は6月末、「イベントにおける感染対策 その特性に応じた考え方」という記事で書いている。

「たとえば、サザンのライブで観客が歌わないなんて、それはありえないですから、当面は野外でやるしかないのかもしれません。しかも、風が比較的強いビーチサイドでやっていただければと」

政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は、新型コロナの防御に必要なのは「三密を避け、大声を出さない」ことであると繰り返し発信している。旅行などの遠距離移動を不安がる声もあるが、分科会の尾身茂会長も「旅行自体が感染を起こすことはない」とコメントしている。移動ではなく、旅行先での行動が問題ということだ。

これは音楽ライブも同じと考えて良いと思う。生の音楽を聴くという行為そのものではなく、観客が三密になり、声をあげるような行為が危険なのだ。だから屋内の密な空間で、観客が密集して声を出すオールスタンディングのライブは、新たな形式が発明されない限り再始動はむずかしいかもしれない。しかし逆に、風が流れ、呼気が拡散する野外で、アーティストと観客、観客と観客が距離をおいてひらくライブはウィズ/ポストコロナの時代に大きな可能性がある。

ソーシャルディスタンスのライブで本当に盛り上がれるのだろうか?さまざまな創意工夫と、文化の変容の可能性

しかしここで、ソーシャルディスタンスなライブなんかで本当に盛り上がれるのだろうか?という問題が起きてくる。わりに高齢者が多く静かな加藤登紀子さんのライブは距離をおいた着席にそれほどの違和感はなかったが、じゃあこれがSuchmosやOfficial髭男dismやBABYMETALだったら、それでも成り立つのか?踊らなくてもいいのか?という問題だ。

その答をさぐるまえに、前提として、音楽がどのように聴かれるのかという構造的な話をしてみたい。

音楽に限らず映画でも書籍でもどんな文化でも、時代という背景があり、その時代に合わせたテクノロジーやシステムがあり、それに合わせて楽曲というコンテンツが成立している。たとえば西欧の伝統的な音楽は18世紀ごろまでは、貴族のサロンで演奏されていた。

ウィリアム・ウェーバーの『音楽と中産階級──演奏会の社会史』(城戸朋子訳、法政大学出版局)という書籍に詳しいが、音楽が演奏されているあいだも人々は酒を飲み、タバコを吸い、音楽に飽きてカード遊びをはじめる人もいた。目的は社交で、音楽は単なるBGMだったのだ。

『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』(渡辺裕著、春秋社)によると、19世紀なかばになって演奏をじっくり聴くことを目的にした演奏会のスタイルがようやく普及してくる。きっかけは中産階級の生活が安定し、音楽を楽しむという趣味が広まったことだった。これによってフランツ・リストのように超人的な技と華麗な演奏で魅了するヴィルトゥオーソと呼ばれる演奏家たちが現れて、今で言うアイドル人気を誇った。

そこから音楽をマニアックに聴くファンが現れて、体系的に音楽の歴史をまなびながら聴くというスタイルも登場し、レコードという記録メディアの登場でこういう聴き方はさらに広まった。レコードは「ヒットチャート」という文化を生み出し、これをラジオやテレビ、雑誌など20世紀のマスメディアが伝えることによってさらに普及した。

音楽にかかわるテクノロジーはその後もさまざまに分化し、深まり、進化していろんなものを生み出している。日本の誇るカラオケもそうで、カラオケの登場によって「歌いやすい曲」が好まれるという影響を音楽に与えた。21世紀に入ると大規模音楽フェスが広まり、「踊りやすい曲」が好まれるという方向をつくった。さらにスポティファイやアップルミュージックのようなストリーミングの登場で、サビを頭にもってくる楽曲が増えてくる。つねに楽曲というコンテンツは、そのときどきの時代背景と登場してきたテクノロジーに強く影響され、変容を重ねていくのだ。

これはひとつの構造である。背景に時代状況があり、それに適合したテクノロジーが普及し、その上で文化が生まれてくる。その文化を好きな人、さらにはその文化を乗り越えていきたい人たちが集まってきて、楽曲や小説や映画など新しいコンテンツが生成されていく。

①時代背景
②テクノロジー
③文化
④コンテンツ

このような四層の積み重ねによって、私たちは楽曲を楽しんでいるのだ。

そして2020年のいま、時代はギリギリと音を立ててまたすこし回転した。世界的なコロナ禍により、いつ終わるともしれぬパンデミックの中で私たちは生きていかなければならなくなったのだ。

ウィズ/ポストコロナでは「三密を避け、大声を出さない」が求められる。それに合わせたテクノロジーやシステムが現れてこなければならない。まだ世界は混乱の極みだが、遠からずさまざまな創意工夫が登場してくるだろう。そしてそれに合わせ文化も変容し、新たなコンテンツを生み出していくいのだと思う。

身体感覚。加えて、アーティストと観客、観客と観客との共鳴

さて、そういう認識を前提として、音楽ライブのこれからを考えてみたい。そもそもライブの本質とはなんだろうか。それはストリーミングやCDなどの電子媒体を経て聴く体験とは、なにが違うのだろうか。そこには二つの重要な要素があると私は考えている。

身体感覚。加えて、アーティストと観客、観客と観客との共鳴。

身体感覚については、言うまでもない。ライブ会場で、PAによって増幅された音楽は強い音圧となって私たちの身体を揺らし、揺れている身体の臓腑にまで音が届いているように感じる。それは自宅のリビングルームで座って電子媒体の音楽を聴いているだけでは得られない体験だ。

野外ライブは、屋内のライブハウスやコンサート会場とは異なるまた別の要素がある。自然の森や川とダイレクトに繋がり、音楽と自分の関係でなく、音楽と自分とそれを取り巻く自然が三位一体となっているような感覚だ。音楽が途切れると、ただの静寂ではなく鳥の声や沢音や木の葉の擦れる音が前景化してきて、自然の音が自分の身体の中へと注がれていく。森の底で開かれた加藤登紀子さんのライブでは、私の中にそんな身体感覚がたしかにあった。

野外ライブの身体感覚は、アーティストと観客という人と人の関係だけではない、より外部に開かれた関係である。こうした関係のありかたは、もうひとつの要素である「共鳴」にもつながっている。

屋内でも野外でも、ライブの音楽は自分の内面に深く沈潜して行き、ステージ上のアーティストとつながっているという愛おしさが生まれ、その愛おしさを周囲の観客たちとともに抱きしめているという共鳴が生じる。私はこういう共鳴こそが、実は音楽ライブの最重要な本質ではないかと思っている。

しかしウィズ/ポストコロナに求められるライブでは、アーティストとも他の観客とも距離は遠い。しかしここで問いたいのは、音楽の共鳴に密集距離は本当に必要なのだろうか、ということである。

オールスタンディングのライブハウスで観客は密集している。しかし密集してライブを聴いていると、逆に群衆の中の孤独を感じることがある。他の観客との距離が近すぎるがゆえに、無意識に私たちは他の観客の肉体を意識しないようにしようとするからだ。アーティストから降り注いでくる音に私たちは集中し、だから観客同士の心は実は離れているように思えることがある。

逆に離れているからこそ、愛惜が湧いてくることもある。密着できず手を伸ばしても触れられないからこそ、私たちはたがいを愛おしむ。孤独と孤独が響き合うのだ。社会学者の上野千鶴子さんがかつて語った、こんな言葉を私は思い出した。

「お互いを独占するつもりのないおとなの恋愛は、かならず孤独をひきつれてきます。ひとは孤独を癒やすために恋愛するのではなく、恋愛するからこそ他人にどうしてもゆだねることのできない孤独を、心底味わうのです。だからこそ、わずかな出会いが闇の中の星のように輝くことを、あなたはまだ知らないのでしょうか」(2011年5月14日朝日新聞「悩みのるつぼ」より)

これは密集し発散する価値観ではなく、開けて分散し、逆にこころは深化し沈潜する価値観である。三密を避けているからこそ、逆に私たちはたがいに愛おしさを感じ、そして距離をとって開けているからこそ、森や湖や川という自然とも接続される。それは、より大きな空間のなかで、人々が互いを遠くから見つめ合うという新しい世界観ではないか。

ウィズ/ポストコロナ時代に、文化のスタイルもこのような方向に向かっていくのかもしれない。そしてその文化に音楽ライブも楽曲も適合し、新たなものを生み出すのではないかと思う。

深い森の奥でひらかれた加藤登紀子さんのライブには、そういう感覚がたしかにあった。この森の先に、野外フェスの新しい地平が遠く見えてきているように思うのである。

#ライブフォレストフェス

#ライブフォレストフェス -森と川と焚火の音楽祭- 2020/7/31-8/2