連載 私のフェスティバルライフ その7|東京の里山に引っ越し。そして、3.11からの日々

連れ合いのN氏とアースガーデンを立ち上げてからの30年のエッセイ。フェスティバルは、仕事の中にも、暮らしの中にもあった。フェスのなかった時代から、フェスが当たり前になった今へ。

今回は、イベントearthgardenが定番化していく中での西多摩への移住と、3.11以降に起こったことについて書きました。このエッセイの中で思い起こすのが一番大変な日々でした。

前回の話は、こちら
https://www.earth-garden.jp/goodlife/82461/

1995年フリーマーケットの開催からスタートしたアースガーデン。エコロジーやオーガニックを大切に、自然と共に生きることを大切に思ってはいたものの、様々な出会いとご縁の中で、その願いをイベント開催を通して表現することが本業となっていき、10年以上フェスを続ける日々の中にいた。

増え続ける備品と場所探し

2008年。次男が小学校にあがり生活の変化でバタバタしてはいたものの、赤ちゃん期が終わり、だんだん大きく強くなっていく姿に親としてはほっとしていた。

そんな私が日常的に困っていたのは、増え続ける備品と置き場所だった。初めは、音響機材などのデリケートな物は家の押し入れの中にいれ、それ以外は庭に倉庫を置いて入れた。それが手狭になり、自宅からすぐの2DKのアパートの一室を借り、それでも装飾部材などが収まらない。そこで、近くのマンションの倉庫も借りることになった。下町の民家の混み行った住宅街では、広さと家賃と納得できる場所を探すに限界を感じていた。

イベントには多くの備品を持たなくてもいい役割もある。しかし、アースガーデンは運営に関わるボランティアやスタッフ、出演者など、すべての人の拠点を作り続けるので、小物から大物まで準備する必要がある。イベントを開催する度に、それぞれの場所から備品を出し、終わったらそれぞれの場所へ戻すのは面倒で大変なことだった。イベント翌日ヘトヘトでも、子どもの暮らしを優先して生活を回すために、居間にしばらく置きっぱなしになっていたこともあった。私はずっとそれらの物と向き合い続けてきている。使う人を想像しながらやれる作業は嫌いではないが、最近は若いスタッフがいないと体力的にやりきれない。それ程の量と重さの備品をイベントごとに移動させているのだ。出店者さんたちも同じで、自分の店を表現するための装飾品や什器など大量の物を車に乗せて持ってきてくれていて本当に頭が下がる。なんでも一緒だが、どんな大きなフェスでも小さな日々の活動に支えられている。

フリーペーパーの発行がスタート!

その当時、フリーペーパーが流行り始めていたが、2008年から2020年までアースガーデンもフリーペーパーを発行していた。発行にあたっては、イベント開催ごとのテーマや関わる人について、じっくりと考え向き合う時間となり、大変だったが意義深かった。最初はN氏とTさん、そこに社会人経験のあるMさんが加わり、そのあとは、この私のエッセイを支えてくれているKさんにバトンが繋がっていき、web発信と共に長く続いた(仕切り直した2011年冬vol.1からはvol.47まで発行)。個人的には取材に同行して、じっくり出店者である作家さんたちのお話を伺えるのも楽しかった。ただ発行を続けるためには印刷代や送料など費用がかかり、維持が大変だった。ちょうどこのフリーペーパーの発行期間で、ガラケーからスマホに切り替わり、タブレットも当たり前になっていった。今となっては、webやSNSなど情報が溢れている中で、たまたま目に止まって興味のあるフリーペーパーを手に取ると、その紙の手触りと出会えた偶然性に心がときめく。物(紙)になって、手に載せるだけなのに、作るのに関わった人の気持ち(言葉)を大切にしたくなるのが不思議だし魅力だと今も思っている。

母親同士、語り合える仕事仲間の登場

2009年のある日、1人の女性が面接にやってきた。主にイベントearthgardenでマーケットの担当をしてくれているM女史だ。あと数年で20年のお付き合いとなる。その面接について後から聞いたら、普通の面接ではなかったと言われてその時は驚いたが、私の面接は独特らしい。このエッセイにも書いたことがあるように、面接での出会いが双方にとって無理なく丁度いいのが私にとっては大切で、色々なことを伺うことになる。

M女史との面接では、私のやってきた出店管理などの仕事を中心にサポートしてくれる人を求めていたので、N氏ではなく私が応対した。イベント業界は、圧倒的に男性が多い職種だ。最近は女性も増えてきつつあるようだが、特にイベント全体に関わる判断をしていくようなポジションに立つ女性は、私の知る限りまだまだ少ない。社会人経験のあるM女史は私より若いが子育て中の母親でもあり、子育てで大事にしていることに共感できた。また、イベントearthgardenのお客さんだったことも聞いて、マーケットを担当していく上で感性的に同じ方向を向いていることが安心もできた。一緒に作業をする中でもお互いに日々の暮らしを大切にしていることを理解し合っていたし、家や社会での女性の役割分担への複雑な想いがある一方で、自分たち女性だからこそ気づける目線や考えがあることも分かり合えた。そんな仲間ができて本当にうれしかった。彼女がいたから、今がある。

東京の西側へ引っ越し

2010年長男の高校を決める流れで、東京の里山である秋川渓谷の山の中の家へ引っ越しを決めた。玄関を開けたら鹿がいるような山の中で、決断するのも引っ越し作業も一大事だった。次男がやっと慣れた下町の小学校生活を途中で転校になることは、母親の私としても同じ部分があり本当に切なく悩んだのだが、備品倉庫の問題も解決するし、N氏も私も元々田舎暮らしを希望していた。また、今振り返ってみると、この時期は私が人生で精神的に最も混沌としていたので仕切り直したい気持ちもあったのだろうと思う。

家を決められたのは、家族で車に乗ってゆっくりと秋川渓谷の道々を散策していて、たまたま前を通って私が気に入った古民家の情報と写真が、家にもどってメールで問い合わせた不動産屋さんから送られてきたことだった。驚きと共に私がこの土地に呼ばれているように感じた。その時から今もずっと、この場所が気に入っている。最初は不安だった次男も、自然や川遊びを満喫し、たくさん友達ができてここでの暮らしを楽しんだ。

この冬の時期、朝陽が山影から差し込むとキラキラと景色が輝きだす。霜が張っていた屋根から水がポトポトと音を立てて落ちてくる。草木も一気に目を覚ますように明るくなる。多分私はここで生きていくだろうと思える場所に辿りついた気がして、今でも目の前の景色を見るとほっとする。実際には、草刈りに追われて不便で大変なことも多いが、それでも、水が流れ、山があり、土が見えているのに私はほっとする。

大きく家がゆれて、慌てて家を飛び出したあの日のこと

引っ越しした翌年2011年、この家で初めて正月を迎えた年だ。東日本大震災から今年で15年目となるが、この年を振り返ろうと思うと言葉がギクシャクして出てこない。田舎に引っ越しして不慣れな上に、長男の高校入学や次男の転校もあってあたふたしながら生活していた。通勤に時間がかかり渋谷のオフィスへの出社が少しずつ減っていっていたあの頃、ちょうどスタッフ2名の退職を見送った後で寂しさと変化に狼狽えている中、2月には2名の男性が社員として入れ替わるように入ってきてくれたばかりだった。それにしてもいろいろ起こる。

2011年3月11日の午後は、私は自宅で1人だった。仕事机で今と同じようにパソコンで仕事をしていた。突然グラっと家が大きく横に揺れて、慌ててサンダルを履いて外に飛び出し、何も倒れてこない場所でじっとしていたら、植林された杉の山が左右に大きく揺れ、その途端ボンっという音と共に黄色の花粉を一斉に飛ばして空が薄黄色に染まったのを覚えている。あれからの、特に直後の3年ほどは、記憶がまばらで、でも覚えている所だけは妙に鮮明な記憶として残っている。

1年経った2012年3月11日にはN氏が意を決して、日比谷公園で『311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth』を開催し、たくさんの市民が集まり、みんなで黙祷し時間を過ごした。開催にあたってN氏は坂本龍一さんや加藤登紀子さんに会いにいった。開催して2、3年は追悼ドームで泣き崩れる人も多く胸が痛んだが、一方で開催できてよかったとも思えた。黙祷の時間は私たちスタッフも作業を止めて手を合わせた。

イベントearthgardenのことで言えば、この3.11の経験を経て、地方に移住していく常連の出店者さんがパタパタと出て寂しかった。人生を見直し生活を変える人もいた。でも、私自身も田舎に移住したばかりだったし、自然との共生を大切に思う出店者さんだからこそ、田舎に移住していくのも当たり前といえば、そのとおり。そういう人たちが出店しながら発信ししてくれていたことが、イベントのコンセプトを支えてくれていたのだと、改めて感じることになった。3.11以降は、開催中止の判断をせざるをえない時もあったが、放射能物質の影響を気遣いながらも、こういう時だからこそ人と人が出会うことの大切さを思って、みんなで踏ん張って開催していた。実際には、そこから何年も日本全体元気がない中での開催は辛かったが、集まってくれた人同士交流する姿に気持ちを支えてもらっていた。

ちなみに、N氏は主に南相馬の復興に走り回った1人だ。2011年3月中には被災地に出向き、自分に何が出来るだろうかと各所と連絡をとり始めた。そうしたたくさんの人の力で少しずつ少しずつ前を向いていけたのだろうと思う。

ボランティアを超えていったMNさん

3.11の話をするときに、彼女を思い出さずにはいられない。話はぐっと遡るが、2005年茨城の高校生たちがマイクロバスを借りて、大人数で代々木公園のearthgardenにボランティアにやってきた。その中のまとめ役の1人だったのが、MNさんだった。今これを大人になった本人が読んだらどう思うか分からないが、目的を達成するための集中力が強すぎて、食べることも適当になるし寝ることも後回し。パワフルだけど繊細で放っておけないような魅力的な女の子だった。有難いことに、今もイベントをサポートしに来てくれている外注スタッフのKくんもその1人で、本当に長いお付き合いとなる。MNさんは、その後4、5年ほどはボランティアやお願いしたイベントの運営スタッフとしても一緒に動いてくれた。彼女のやることは本質的で抜かりがなかった。

ちょうど2011年ごろは、そんな彼女が夢にむかって地球の裏側に行ってしまっていて、やりとりが無かった頃だ。そんな中3.11になった。思い切って世界に飛び立った彼女が、また別の意味で日本に戻ってくる決断をした。石巻での彼女の復興時の活躍はそれに関わった人の多くが知る事実で、人と人、団体と団体を繋げていって、たくさんの人に求められ奮闘していた。私と入ったばかりのスタッフ2人と石巻の瓦礫の片付けのボランティアに駆けつけた時には、久しぶりに彼女の凛々しいリーダーシップを見た。たくさんの困難な目にあっている人たちを前に、彼女の感性は激しく揺れ動いただろうと思う。そして、果敢に状況に向き合う彼女の姿に、多くの人が助けられ感動しただろうと思う。

本人はきっと、必要なことをみんなで力を合わせやっただけだと、言いそうだけど。彼女やAさんやJさん、お付き合いのあった人たちが石巻で活動してくれていることを知っているだけで私まで励ましてもらった。

2013年には、1番最初に仲間になってくれたSちゃんが卒業していき、2014年にはKMさんがスタッフに加わってくれた。人が変わると、アースガーデンも変わる。小さい会社なので当たり前だが、それがとても面白い。

次回は「ハイライフ八ヶ岳がスタート!そしてコロナ禍での日々」をお届けします。