連載私のフェスティバルライフ その3|初めてのフリーマーケットが雨天中止!?

連れ合いのN氏とアースガーデンを立ち上げてからの30年のエッセイ。フェスティバルは、仕事の中にも、暮らしの中にもあった。フェスのなかった時代から、フェスが当たり前になった今へ。

今回は、イベント初開催に向けてのお話しです。

前回の話は、こちら
https://www.earth-garden.jp/goodlife/80001/

その3  初めてのフリーマーケットが雨天中止!?

アースガーデンにとって初めてのイベント「フリーマーケット楽市楽座」は、毎月第3日曜日開催で、初回1995年9月の出店者さんは確か45店舗ほど決まっていた。チラシ配り以外にも、暑い中細々とN氏と準備を進めていて、ある日には、アパートのベランダで、薄いベニア板とペンキを買ってきて、汗をかきながら当日のルート案内用の看板をたくさん描いたりした。

緊張がつづく準備期間

その頃の私は緊張していた。今でもそう。こんなに長くイベント業をしているのに、イベント開催日の2週間くらい前から私は眠りが浅くなる。自覚がないのに眠りに異変を感じるとだいたいそのくらい前で、心と体が繋がっているのだとしみじみ思う。私は、慣れるということが人より苦手なのかもしれない。

そうして迎えた開催の前日、なんと当日の天気予報が雨になった。不幸中の幸いとして、はっきりとした雨予報だった。イベントが雨天中止の時、判断に悩むのは中途半端な小雨や霧雨のような天気だ。その日はしっかりとした雨予報だったが、降り出すタイミングがはっきりしていなかった。

一件一件に電話をする

今だから言えるが、雨で中止かもしれないとN氏と話した瞬間、少しほっとした。でも、自分が出店者全員に電話連絡を入れるのだと受け止めた時、そんな自分に呆れてしまった。

電話をしても留守の時には「天気予報を見ると残念ながら明日は中止になりそうですが、念の為、明日の早朝連絡をします」と、固定電話にメッセージを残す。当然、全員に連絡がつくわけもなくFAXを送ったり、夜電話をかけ直した。スマホどころかガラケーさえまだなかった時代だ。

結局、フリーマーケットは雨で中止になったが、お客さんが来てしまうかもしれないと会場の湯島聖堂に行って午後2時くらいまで待った。その日家に戻ってから、私は巨大なてるてる坊主を作った。かなり大判のバスタオルに人の頭ほどの瓢箪を上下ひっくり返して包み込んでフェルトで凛々しい眉毛の意思の強そうな顔を縫い付けて吊るした。

その日、やるべき事を全部終わらせたら、やっと悔しいと感じられた。てるてる坊主は今でも家にあって、壁の上の方から首からぶら〜んと吊り下げてあるので、お客さんを驚かせてしまうときがあるが、捨てる気持ちにはなれない。

念願の初開催を迎える

1ヶ月が過ぎた10月15日は曇り。雨の可能性はなく、晴天とはいかなかったが無事に初めてのフリーマーケットを開催出来た。9月に出店予定だったお店に加えて、出店が増え告知もできて思った以上に賑やかな開催になったのだ。ばんざい!!!

当日には、GAIAのみんなも来たし、20代半ばだった渋谷の古本屋の息子(今は主人)のYくんや、その友達のTくんが手伝いに来てくれた。「フリーマーケット楽市楽座」は結局4年半続いたのだが、その間にどんどん仲間も出店者さんも増えていった。

今となってはフジロックで舞台監督をしているAくんと照明をやっていたSちゃん、Wちゃんたち、N氏の両親もほぼ毎月来てくれた。『じゃんぴんぐまうす』という美味しいコーヒーとケーキのお店のKさんご夫妻は、走り回れるようになった息子をよく面倒みて可愛がってくださった。

新しい出会いがいっぱい!

フリーマーケットは、最初は不用品を売る人がほとんどだったが次第にクラフト作品が充実していった。当時エスニックブームで、海外にいった若者たちが買ってきた現地のクラフト品も売られ、ステージでは色々な国の音楽やダンスが披露されて多彩で自由な雰囲気がとても魅力的だった。

ソーラーパネルを使ってのステージも、キッチンカーも当時は本当に目新しかった。そのせいか、おもしろい人が集まってきて次第にイベントとしても知られていきお客さんで溢れていった。アーティストとの出会いも、この頃から始まった。

お店の数も、最初の頃は40店舗前後の開催もあったが、後半は募集数の120店舗を超え、毎回お断りするほどに定着した。今でも当時からお付き合いが続いている方やお店への感謝は、愛情となり、私の心を支えてくださっている。

開催当日、骨董品のような鍵を入れて回し、湯島聖堂の重厚な鉄の門を開けると、出店者さんが荷物を持ち、列を作って待ってくれていた。その光景を見る度本当にうれしかった。都会の風をまっすぐに受け止められた、そんな気がした。ここでがんばっていこうと思えた。

第二の人生のはじまり

私が大学後半にバブルがはじけ、26歳の私たちが「フリーマーケット楽市楽座」を始めて続けている間にリサイクルやエコロジーという言葉をGAIA以外でもよく耳にするようになった。オーガニックやフェアトレードという言葉も広がっていった。上京したばかりの私には、友達や知り合いがたくさん出来た。私の願う世の中を心に思い描きながら開催を続ける中で、この人たちとだったら一緒に歩んでいけると思える人たちとの出会いだった。

出来るだけ環境に負荷をかけないように日本のどこかでそっと生きていければいいと思っていた私の人生予想が、アースガーデンを初めてからドンチャンドンチャンと賑やかに一転した。

若く、何も持ってなかったので無理も多かったが、それを支えるだけの自由と体力と夢見る力があった。

美談だけでは語れない。

でも

愛おしい日々。

〜次回、「その4 南米チリを縦断!家族で自転車旅行に行く!」につづく