湖のお風呂 ~無いけど有る旅のこと~【コラム|感じるために生きている】

25年ほど前にグアテマラに行ったことがある。連れ合いと、あと、お腹の中ですくすく発育中の長男と一緒だった。その旅の途中、まるで海のように大きく広がるアティトラン湖のほとりの街に、しばらく滞在した。

鮮やかな色彩の織りや刺繍をほどこした民族衣装をきた人びとが行き交う市場が観光客にも人気だった。街全体、治安も良くのんびりとしていた。魚も捕れる湖の懐の大きさのおかげもあるだろうし、観光地として規律が守られていたからなのかもしれない。

部屋に物が4つだけ

私たちが選んだ宿は、簡素中の簡素な1階建ての建物で(今思えば中学の部室棟みたい!)、トウモロコシ畑が目の前にあって、部屋はそれに沿うように1列に並んでいた。室内は、コンクリートの床に、ベッドと、木の机とイス、そしてロウソク台があるだけだった。部屋の中の物はその4つだけ。

私の人生でもっとも物の数が少なかった部屋だ。その部屋の軒下にハンモックを吊して、妊娠中の体を旅の疲れから労るように多くの時間はゆらゆらと揺れてすごした。朝になると、民族衣装をきた3才から8才くらいの可愛い三人姉妹が、はにかんで笑いながら、手作りのパンを売りに来てくれた。ミルクと小麦の味がちゃんとしておいしかった。毎朝来ると、一緒に日本からもっていった折り紙で折り鶴をおる練習をした。

トウモロコシ畑のトイレと湖のお風呂

部屋の列の端に、トイレとシャワーがあったが、匂いもあってとても使う気にはなれなかった。そして、地元の人たちも、それを使っている気配を感じなかった。私も目の前のトウモロコシ畑に身を隠して用を済ませたり、観光客用のお店のトイレを使ったりした。

アティトラン湖に出ると、湖の箇所箇所で、洗濯をする人、水遊びの子どもたち、体を洗っている人とで、どうも場所の棲み分けがされているようだった。私は宿のシャワーを選ばず、美しい水をたたえた湖に飛び込む方を選んだ。

簡単なノースリーブのワンピース一枚だけを着て、タオルとシャンプーと石鹸をもち湖までいき、髪を洗っている人のその先まで歩いていって、まずは湖を泳いだ。基本気温が高いので、水が冷たすぎるということはなかった。深くて足は着かない。

幸い私は泳ぐのが好きなので、頭のてっぺんまで濡れるようにもぐった。それで、水際近くに戻り、立ち泳ぎをしながら、頭にシャンプーをつけ洗い、ちゃんと洗えているのかわからないけどともかく体に石鹸をこすりつけて洗った。洗い終わったら、湖の沖から離れた場所で、水がうんと澄んでいるだろう場所まで、スイスイと泳いでいった。波がないから泳ぎやすい。そして、シャンプーを落としながら、遠巻きにUターンして帰ってきた。ともかく、たっぷりとある水の中で泳ぐのは本当に気持ち良かった。少し離れた先で子どもたちが遊んでいて、私の方にむかって、何かキャッキャと楽しそうに話していた。

夜はロウソクの灯りしかない。でも、星はとてもきれいだった。

自然とつながっている

社会の繋がり絡み合っている編み目から抜け出て、地域や自分で自活して暮らしていく。その事を考えたときに、無いけど有る、見えなくても繋がっている、自然の中での体験がとても大切なんだと気がついた。それを感じてきた人たちは、闇の中に一人膝をかかえて生きるのとは違う、個でいながら繋がっているという体感を抱きやすいのではないかと思う。

大きい自然の中へと旅たとう。「ない自由」を楽しむ経験をすることは、これからの世の中で生きていくのに、きっとあなたの心を支えてくれるはず。

アースガーデンの母が書くコラム「感じるために生きている」