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【コラム|セネガルの生活】境界のあいまいさと寛容さのこと

こんにちは。青年海外協力隊員として、西アフリカ・セネガル共和国におります、山口織枝と申します。今回は、セネガルで感じる、「境界のあいまいさ」について書かせていただきたいと思います。

親戚の子も家族

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任地に配属される前、別の町で3週間程の期間、ホームステイをしながらこちらの言語を学ぶ語学研修がありました。そのときにホームステイをしたお家に、小さな女の子二人と、高校生くらいの年齢の男の子がいました。私は、3人ともそのお家の子どもだと最初思っていました。でも、話しを聞いてみると、その高校生くらいの男の子は、親戚の子どもで、勉強のためにその家に住んでいて、自分の親の家は別の所にある、ということでした。

そのときは、そうなのか、と思ったのですが、後から、セネガルの家庭では、そのように、別の町に家があったり、家族がいたりする人が、他の町の親戚などの家に仕事や勉強などのために一時的に一緒に住んだりすることが、ごく普通にあるということが分かりました。私の住んでいるアパートの向かいの家の女の子も、勉強のために親戚であるその家庭に住んでいる、とのことでした。

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お祭りや、普段のときも、セネガルの人の家にお邪魔すると、次から次へと、近所の人や親戚らしき人が挨拶に来る、ということは普通です。ご飯も家族に限らず、近所の人や誰か来客があればその人も一緒にどうかと誘うことは当たり前のようにされていますし、実際に家族と、その友人や近所の人が一緒にご飯をすることは全く珍しいことではありません。

ときには色々な人が出入りしその人たちをいっぺんに紹介されて、結局どのような関係の人か把握しきれずに、でも一緒にいる、という場面が、正直あります。(笑)向こうからしたら、この外国人は一体誰なのだろう?と思うのが自然かもしれませんが、そういうこともあるだろう、という感じででんと受け容れてくれているのを感じ、有り難いです。

家族じゃなくても、兄弟

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そして、セネガルの人は、本当の姉妹、兄弟でなくても、人を紹介するときに、「私の妹だよ」「私の兄だよ」といった具合に言うことがとても普通です。最初は、それを本当の姉妹や兄弟のことを指しているのかと思っていましたが、それは親しみを込めて、自分の姉妹や兄弟のような存在として、そのように表現しているのだ、ということが分かりました。英語でも、「My brother」と親しみを込めて言ったりすることと同じようなことだと思います。

世界はきっちりと分けられるものではない

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他の人をいつも第一に考えているセネガルの人たち。自分が椅子に座っていたとしても、他の人が来たら自然にその椅子から立って席をすすめるということが自然に行われています。そういう日常の中にいると、セネガルの人たちの優しさを強く感じるのですが、私は、セネガルの人たちは、人の繋がりが濃厚であるからこそ、自分と他者や、家族と家族などの、間にある境界線があいまいであるように感じます。

また、私たちのような外国人は、外見が異なるので、特に小さな子どもなどから「外国人」を指す用語で呼ばれたりすることはよくありますが、挨拶すると、特に何の垣根も感じさせず、セネガルの人たちと変わりなく接してくれている、と感じますし、言葉がうまく喋れなくて、言いたいことがうまく言えなくても、こちらが「何かを伝えたい」という姿勢をきちんと見せて話せば、言いたいことを汲み取ろうと、聞く耳を持ってくれているのを感じます。

この世界は本来、きっちりと分けられるものではないと思います。

たとえば言葉というものの持つ性質も、国境も、それを分けようとする試みなのかもしれませんが、グラデーションである世界を分けることで、そこには「あそび」の要素がなくなってしまうということもあるかもしれない、と思います。

ですが、ここセネガルでは、境界が明確でない部分があることで、それが「あそび」となって、人に対する寛容さを生んでいるというようなことが、あるのではないかと思います。